これまでの記事で私の場面緘黙症の体験談をご紹介してきました。
その中で、私の両親については触れてこなかったので、この記事で少しお話ししていこうと思います。また、先生方の対応や、私の自信のあった得意分野などを交えて、周囲の理解や「自信」が与える影響についてお話ししていきます。
同じように悩んでいる人や、知りたい人の参考になれば嬉しいです。
対照的だった父と母の対応
母の「待つ力」が、私を守っていた
両親は私が小学校2年生の時に別居して、母はシングルマザーとして私を育ててくれました。
母のすごかったところは、私が3歳から中学を卒業するまで「しゃべれないこと」に対して一度も私を責めたり、怒ったりしなかったことです。
外出先で、知人に会って私が黙り込んでしまっても母はいつも自然に間に入ってくれました。
「真駒は話すのが恥ずかしいみたい」
と、自然にフォローしてくれました。
後から、「なんで返事しないの?」などと、問い詰められることもありませんでした。
母に当時のことを聞いてみたら、
「ただのものすごい恥ずかしがり屋な子だなって思ってたよ」
そして、こんな言葉も。
「真駒ならいつかしゃべれるようになるって思ってたし、大人になれば変わると思ってたから」
「もし大人になってもしゃべれないままだったら、あれ?って感じてたかもしれないけど」と、気にも留めないような様子で言っていました。
この”待ってくれる空気”が、当時の私をどれだけ救っていたか。
責められなかったから、自分を責めなくて済んだのだと、今なら思います。
父の反応が教えてくれたこと——“責める環境”の怖さ
一方、父はというと母とは正反対のタイプでした。
両親は別居していて、父に会うのは2〜3週間に一度くらいのペース。
行事に参加してくれたのも、幼稚園の頃までだったと記憶しています。
そんな父が関わった、幼稚園の参観日のエピソードをご紹介します。
幼稚園の参観日、母は弟の教室へ、父は私の教室へ観に来てくれました。
しかし、何もせず黙っている私を見て「真駒、全然しゃべらないぞ!周りの子は絵を描いているのに描こうともしない!」と母の教室まで怒鳴り込んできたそうです。
母は“何もしない私”にピンと来たようで、私の様子を見に。
当時、私は手首の関節が何かの拍子で外れてしまうクセがあったようで、その状態がお絵描きの時間中に起きてしまいました。
母が私の手の関節を入れるなり、黙々と絵を描き始めたそう。
(関節が外れるたびに病院に行っていたけど、医者はそれだと大変だからといって母に関節の入れ方を教えてくれたそうです)
それでも父は「外れたならそう言えばいいだろう」と私にイライラしていたと聞きました。
しゃべれないから教えることができない状態
そのことが父には届かなかった…というより、想像が及ばなかったのだと思います。
父にとってはしゃべらない=やる気がないという解釈だったのでしょうね。
もし父と一緒に暮らしていたら、しゃべれない私はずっと責められていたんじゃないか。
そんな環境だったら、きっと私は自信をなくしていたんじゃないかな…と。
そう考えると、父と過ごす時間がなくなった環境は、私にとっては良かったのかもしれないです。
言い方は悪いけど、これが本音です。
責める人がそばにいるか、待ってくれる人がそばにいるか。
その違いだけで、子どもの心の育ち方はまったく変わってしまうと思います。
まこま「待ってくれる人」がそばにいることが、どれほどの救いになるかを痛感します。
母もまた、かつて「しゃべれない」経験をしていた
なぜ母は、あれほど私を信じ続けてくれたのか。
実は、母自身も小学3年生の頃、環境の変化(転校)をきっかけに喋れなくなった経験をしたそうです。
都会育ちだった母が、両親の離婚をきっかけに引っ越した先は、山に囲まれたど田舎。
驚いたのは子どもたちの服装で、自分がスカートを履いているのに周りの女の子はみんなズボン。
母は、そんな違いにものすごく戸惑い、
“自分だけ違う”ことがすごく嫌で、さらに“珍しい格好をしてる”ということで目立っていることにとても不安を感じたといいます。
また、母は引っ越す前の学校では学年で一番に足が速かったそうなのですが、転校先では比べ物にならないくらい足の速い子がたくさんいたそうで、驚きと共に自信をなくしてしまったといいます。
そういった驚きや戸惑いが重なったことで、母はしゃべれない状態になってしまったのかなと思いました。
授業中、先生に指されるたびにドキドキしていたとも言っていました。



“指されるな、指されるな”——その緊張感にすごく共感!!
母の場合、しゃべれなかった期間は1年間ほどだったそうで、克服したきっかけはあまりよく覚えてないけど、友達がきっかけだったかなと語ってくれました。
“しゃべれない”と“しゃべれるようになった”の両方の感覚を知っていたからこそ
「喋れない時期があっても、いつかきっかけがあれば大丈夫」
と、私を責めることをせず、信じて待てたのだと思います。
親の経験が、子どもを救うことがある。
そんな静かな連鎖を感じた話でした。
先生たちの「ちょうどいい距離感」
学校生活においても、私は恵まれていたと思います。
当時の先生たちは、私に無理やり話をさせようとしたり、しゃべらないといけない場面を無理やり作ったりといったようなことはありませんでした。
一度だけ、1年生の頃にめちゃくちゃ嫌な経験はありますが…
その経験談についてはこちら↓


とはいえ、授業の朗読で私だけ読まなくてもいいとか、そういった私を特別扱いすることもありませんでした。
できるものはみんなと同じようにさせるし、私がどうしてもしゃべれなくなっていて進まない状態になってしまった時は「じゃあ、◯◯ちゃん代わりにお願いできる?」と自然に切り替えてくれて、無理強いはしてきませんでした。
私の担任からの評価というと、
「普段は大人しく過ごしている」
「授業はとても真面目に受けている」
といった感じだったようです。
そして、これは私の特性への配慮だったのかはわからないのですが、
2、4年生…A先生
3、5、6年生…B先生
中学校3年間…C先生
といった感じで、担任の先生があまり変わらなかったんです。
毎年、新学期は「先生は誰かな?」と、とても不安になる時期だったので、慣れている先生が担任だったことは、すごくホッとしていました。
どの先生も、威圧的だったり急かしたりすることをしない人たちだったので、こうした「見守る」姿勢のおかげで、学校は「怖い場所」にならずに済んでいたのかなと思います。
「しゃべれなくても、ここにいてもいい」と思えた瞬間
しゃべれなかった私にも、得意なことが二つありました。
一つ目は絵を描くこと。
絵は幼稚園の頃から好きで、1人でいるときはひたすら描いて過ごしていました。
気づいたら「真駒ちゃん、絵うまいね!」と言われるようになって、クラス新聞のイラストを頼まれるようにもなりました。
「口は動かなくても、絵で誰かの役に立てる」
それが、少しずつ自信に変わっていったと思います。
二つ目は走ること。
これは、自分でも「得意だ」とわかっていた特技でした。
幼稚園の頃、かけっこで1位になれなくて悔しくて泣いていたらしいから、たぶん昔からそういう負けず嫌いな部分があったんだと思います。
高学年になると、リレーの選手はクラスで話し合って決めるようになるのですが、私は心の中では「やりたい!」という気持ちがあるのに、自分からは言い出せませんでした。
こういうとき、しゃべれない自分がとても嫌で苦しかったのを覚えています。
でも、クラスのみんなが
「足の速い真駒ちゃんが走ってよ」と、推薦してくれました。
そのひと言が、本当に嬉しくて。
「しゃべれなくても、みんなに認めてもらえてる」
「このクラスにいていい」
そう思えた瞬間でした。
小学校から中学校まで9年間、運動会では毎年リレーの選手として走りました。
あの経験があったから、学校生活をどうにか続けられたのだと思っています。
これまでの体験談のまとめ
「しゃべれないこと」はとても辛かったですが、
「しゃべれない自分を責められること」は、それ以上に辛かっただろうな…と、当時を振り返る中で感じました。
幸いにも私は、「責められる場面」が少ない環境を過ごせていたと思います。
気づかないうちに気遣ってくれていた母や先生、クラスのみんな。
そういう人たちに囲まれていたことは、本当に恵まれていたと思います。
そして、そんな環境があったからこそ「勇気を出してみよう」と思える気持ちが、少しずつ育っていったんだと感じています。
場面緘黙症の人にとって、しゃべる「勇気」を出すことは、想像以上にハードルが高いものです。
だからこそ、その一歩を踏み出せるかどうかは「環境」が大きく左右すると、私は思っています。
そして、もうひとつ、私を支えてくれていたものは「自信」です。
絵でも、走ることでも、なんでもいい。
「これだけは得意だ」と思えるものが一つあるだけで、それが勇気を出すための土台になって行きます。
その自信が、きっと次の一歩を支えてくれるはずです。
次の記事では、場面緘黙症のイメージを私なりに図やイラストで表現して解説していこうと思います!
ここまで読んで下さりありがとうございます!




